「ケアの倫理」とは?もうひとつの正しさのかたち

友人と旅行に行って、割り勘の計算をしているときのこと。食事代やホテル代を、きっちり人数分で割るべきか。それとも、たくさん食べた人が多めに払うべきか。あるいは、家族の間で、誰が親の介護を担うかを話し合うとき。「平等に分担するべきだ」という声と、「今、時間の融通が利く人がやればいい」という声がぶつかることもあります。

こうした場面で、私たちは無意識のうちに、いくつもの「正しさ」の基準を切り替えながら判断をしています。あるときはルールや公平さを軸にし、あるときは相手との関係やその場の事情を軸にする。実はこの切り替え自体が、倫理学の中で長く議論されてきたテーマと重なっています。

そのヒントになるのが、ケアの倫理という考え方です。この記事では、聞きなれない専門用語も、できるだけ身近な例えに置き換えながらひもといていきます。

ケアの倫理とは?正義の倫理と何が違うの?

「正しいことをする」と言うとき、私たちはたいてい、誰にでも当てはまるルールを思い浮かべます。約束は守るべき。嘘はいけない。困っている人が二人いたら、より困っている方を優先すべき。こうした「みんなに共通する正しさ」を軸にする考え方を、倫理学では正義の倫理と呼びます。

有名な哲学者の理論の多くも、実はこの考え方に基づいています。「ルールに従っているかどうかで正しさを決める」というカントの考え方も、「結果として一番みんなが幸せになる選択が正しい」という功利主義も、それぞれ違う理屈ではありますが、根っこの部分は似ています。人間を、他人から独立した一人前の個人として捉え、その人と別の人との関わりは、あとから交わす約束や契約のようなものだと考えるのです。

これに対してケアの倫理は、まったく違う場所から出発します。二つのポイントで整理してみましょう。

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1. 出発点が違う:「独立した個人」から「支え合う関係」へ

正義の倫理のもとでは、「自分が誰かに何かをしてあげなければいけない理由」は、たいてい「約束したから」「契約したから」という形で説明されます。逆に言えば、約束していないことについては、そこまで責任を感じなくてもいい、ということにもなります。

ケアの倫理は、ここに違和感を投げかけるところから始まりました。人間は、最初から一人前の個人として生まれてくるわけではありません。生まれたばかりの赤ちゃんは、誰かの手を借りなければ一日も生きられませんし、年を取れば、多くの人がまた誰かの手を借りることになります。つまり人間は、独立している時期の方がむしろ一時的で、誰かに頼ったり頼られたりしている時間の方が、実はずっと長いのです。

2. 義務が生まれる場所が違う:「約束」から「気づいてしまったこと」へ

この事実に目を向けると、「なぜ自分は誰かのために動くのか」という問いへの答えも変わってきます。約束したからではなく、目の前に困っている人がいて、自分がその人の力になれる立場にいる。それだけで、もう十分に理由になる。ケアの倫理は、そう考えます。契約書は必要ありません。気づいてしまった、それだけで十分なのです。

ケアの倫理が生まれた背景とは

1980年代、心理学の実験室で起きていたこと

この視点を最初に理論として言葉にしたのが、心理学者のキャロル・ギリガンです。1982年に出版した『もうひとつの声で』という本の中で、ギリガンは、当時主流だった「道徳性の発達」についての心理学理論に疑問を投げかけました。

この理論を提唱したのは心理学者ローレンス・コールバーグです。抽象的なルールに基づいて判断できるようになるほど、道徳的に成熟しているとされていました。ところが調査をすると、女性の回答の多くが、周りの人との関係や、その場の事情を重視する内容になっていて、コールバーグの尺度ではより低い段階(良い人だと思われたい、周りに認められたいという気持ちを軸にする段階)にとどまっていると評価されてしまっていたのです。

「もうひとつの声」の発見

ギリガンは、これは未成熟なのではなく、ただ違う声で話しているだけではないか、と考えました。ルールを重視する声とは別に、関係を大事にする声がある。それを「もうひとつの声」と呼んだのです。

この気づきは、最初はあくまで心理学の一つの発見でした。けれど、そこから40年ほどかけて、何人もの哲学者の手によって、一つのしっかりした倫理学の理論に育っていきます。

対立から統合へ:ケアは正義の土台になった

最初のうちは、「ルールを大事にする正義の倫理」と「関係を大事にするケアの倫理」は、水と油のように相容れないものだと考えられがちでした。けれど今では、むしろケアがあってはじめて正義も成り立つのだ、という考え方の方が有力になってきています。

哲学者のヴァージニア・ヘルドは、2006年の著書『ケアの倫理:個人的、政治的、地球規模の視点から』の中で、ケアをあらゆる価値の中でもっとも基本的で包括的なものと位置づけ、正義や平等、権利といった価値は、ケアという関係性のネットワークの中でこそ組み立てられるべきだと論じています。誰かと約束を交わせるような一人前の人間に育つこと自体、まず誰かにケアされて育つという経験なしには起こりえないからです。

ケアの倫理が大事にする5つの視点

正義の倫理とケアの倫理、具体的に何がどう違うのか。もう少し身近な例で見ていきます。

関係:人は、はじめから誰かとつながっている?

正義の倫理は、人をまず一人の独立した個人として見て、他人との関わりは後からできるものだと考えます。ケアの倫理はその逆で、関わりの方が先にある、と考えます。生まれた瞬間から、私たちはすでに誰かとの関係の中にいます。今生きているすべての人は、かつて誰かの手を借りなければ生きられない赤ちゃんでした。そして、子供のとき、病気になったとき、年を取ったときなど、一生のどこかで必ずまた誰かに頼ることになります。「誰にも頼らずに生きていく」ことの方が、むしろ例外なのです。

感情:気持ちは、判断の邪魔になる?

正義の倫理では、感情はしばしば「判断を鈍らせるもの」として扱われます。冷静に、客観的に考えるべきだ、というわけです。ケアの倫理は、これも少し違う見方をします。誰かを気の毒に思ったり、相手の様子が気になったりする感情は、むしろその人の状況を正しく理解するための、大事な手がかりだと考えるのです。ルールに照らして考えるより先に、まず「この人は今、何を経験しているのだろう」と想像してみること自体が、一つの倫理的な態度だという考え方です。

責任:約束していなくても、義務は生まれる?

正義の倫理では、誰かのために動く理由は、たいてい約束や契約から来ます。ケアの倫理では、目の前に助けを必要としている人がいて、自分にその人を助けられる立場があるという事実そのものが、理由になります。

公と私:家庭の中のことは、家庭だけの問題?

育児や介護といったケアの営みは、これまで「家庭内のプライベートな問題」として扱われ、社会全体の課題としてはあまり議論されてきませんでした。ケアの倫理は、この線引きに疑問を投げかけます。困っている人の必要に応えることを、経済成長や安全保障よりも優先すべき、社会全体の目標として捉え直そうとするのです。

互酬性:お返しがなければ、関係は成立しない?

正義の倫理での関係は、契約のように「同じだけのものを返してもらう」ことを前提にしがちです。ケアの関係はそうではありません。赤ちゃんの笑顔や、看病してもらった人がほっとした表情を見せること。そうした、相手からの何気ない反応そのものが、ケアする側にとっての支えになります。同じものを返す必要はないのです。

動物との関わりにも、この考え方は広げられる

ケアの倫理は、人と人との関係だけでなく、人と動物との関係にも当てはめられてきました。

当てはめる理由:「理性」ではなく「感じる力」

動物にどれだけ人間に似た理性があるかではなく、動物自身が痛みや快適さを感じる力(感受性)や、何かを伝えようとする力を持っているかどうかが、私たちが動物に対して責任を負う理由になる。ケアの倫理は、そう考えます。研究者たちは、トム・リーガンやピーター・シンガーといった学者による「動物の権利」という考え方にも疑問を投げかけています。権利論は、動物にも人間と同じように理性や苦痛を感じる力があるから権利を認めるべきだと主張しますが、これは結局「人間にどれだけ似ているか」で動物の価値を測っていることになり、動物をそのものとして見ていない、という指摘です。

構造的な問題として捉える視点

この立場はさらに一歩進んで、人間が動物を支配する構造と、女性が下に置かれてきた構造は、同じ一つの仕組みの中で結びついていると論じます。

ミソセリーとミゾジニー、二つの「軽んじる態度」

社会学者のジム・メイソンは、1993年の著書『An Unnatural Order(不自然な秩序)』の中で、動物を見下す態度を指す言葉として「ミソセリー」という言葉を作りました。女性への憎しみや蔑視を指す「ミゾジニー」に着想を得た造語です。この議論では、人間による動物の家畜化が、社会の中で誰かを誰かの下に置くという構造そのものの原型になっていると言われています。

家父長制のもとでは、「男らしさ」は、理性を持ち、動物とは違う存在であることによって定義されてきました。この構図の中で、動物への蔑視と、女性への蔑視は、同じ論理を使って正当化されてきた、というのがこの立場の主張です。

互いに置き換えられる、女性と動物

この結びつきは、言葉の使われ方にも表れています。動物は、自然や本能に近い存在として、しばしば女性のイメージと重ねられます。逆に、女性を動物の名前(雌牛、雌鶏など)で呼ぶ蔑称も、多くの言語に存在します。動物のように扱われることが、人間としての価値を軽んじる意味を持ってしまう、という構造です。

哲学者のキャロル・J・アダムズは、この仕組みを「不在の指示対象」という考え方で説明しています。「肉の塊」という言葉で女性を評するとき、そこで実際に殺された動物の存在は見えなくなり、同時に女性自身も、感情や意思を持つ一人の人間ではなく、消費される対象として扱われてしまう、という指摘です。

この構造は、人種の問題ともつながっています。一部の研究では、有色人種の女性が、男性中心の視線の中で「動物により近い存在」として描かれてきたという指摘があります。これは、女性を軽んじると同時に、「動物に近いことは劣っていることだ」という発想そのものを、さらに強化してしまう働きを持っています。つまり、性別・人種・種にまたがる複数の軽視が、互いを支え合う形で成り立ってきた、という見立てです。

「理性」を特別扱いしてきたこと自体への疑問

これらの議論の根っこにあるのは、理性を感情よりも高く評価し、それを基準に誰が尊重されるべきかを線引きしてきた、これまでの考え方そのものへの疑問です。女性も動物も、長らく「身体的で、感情的な側」に属するものとして位置づけられ、権利を持つべき「対等な仲間の輪」の外に置かれてきました。ケアの倫理は、共感やつながり、相手の苦しみに応答することを重視する立場から、こうした軽視の連鎖に疑問を投げかけ、人間であるかどうかに関わらず、それぞれの存在に価値があるという見方を取り戻そうとしています。

ケアの4つのステップ

ここまで、ケアの倫理の基本的な考え方と、動物との関係への広がりを見てきました。最後に、ケアという営みが実際にはどう進んでいくのかを、もう少し具体的に見ていきます。

政治学者のジョアン・トロントは、ケアという行為を、ふわっとした気持ちではなく、順番のある一つのプロセスとして整理しました。四つの段階に分かれていて、それぞれの段階には、それがきちんとできているかどうかを測る、いわば「その段階なりの良さ」のようなものが結びついている、という考え方です。

① 気づく:すべての始まりは、注意を向けること

すべての始まりは、「あ、この人には何か必要としているものがあるのかもしれない」と気づくことです。トロントは、この段階で大事なのは、相手にきちんと注意を向けられているかどうかだと考えました。逆に言えば、そもそも相手の必要に気づきもしない、目を向けようとしないこと自体が、一つの倫理的な失敗だということです。トロントはこの「注意を向けること」の大切さを説明するにあたって、哲学者のシモーヌ・ヴェイユの考え方を参考にしています。人と人とが本当の意味でやり取りをするためには、まず相手にきちんと注意を向けることが欠かせない、という考え方です。

② 責任を持つと決める:引き受けるという選択

気づいただけでは、まだケアは始まりません。次に必要なのは、「この必要には、実際に応えられそうだ」と判断し、自分がその責任を引き受けようと決めることです。ここでのポイントは、責任というものを、個人の道徳心の問題や、堅苦しい義務としてだけ捉えないところにあります。むしろ、社会全体としてケアという営みをどう分担していくのか、という政治的な問いとして捉えるのです。誰か一人が黙って背負い込むのではなく、社会にはケアを必要とする人がいるという事実そのものを、みんなでどう受け止めるかを考える、ということです。

③ 実際に世話をする:問われるのは腕前

三つ目の段階は、実際に手を動かして、体を使って世話をする段階です。ここで問われるのは、その世話がちゃんと「うまくできているか」という、いわば腕前の良さです。気持ちがこもっていれば良い、というだけでは終わりません。相手の状況に本当に見合った、行き届いた世話ができているかどうかが問われます。この段階だけは、結果として実際に役に立ったかどうかが評価の軸になる、というところが特徴的です。

④ 応える:ケアを完成させるのは受け取る側

最後の段階は、世話をされた側が、それに何らかの形で応えることです。この応答があってはじめて、その世話が本当に相手の必要に見合ったものだったかどうかが確かめられます。ただし、世話をされる側は、たいてい弱い立場や、対等とは言えない立場に置かれていることが多く、素直に反応を返すこと自体が難しい場合もあります。良いケアとは、そうした難しさもきちんと理解した上で、世話をされる側が自分の言葉で応えられるような余地を残しておくことでもあります。世話をされる側を、ただされるがままの存在としてではなく、自分の意思を持った一人の相手として扱う、ということです。

この四つがそろって、はじめてケアという関係が成立する。トロントはそう考えました。

哲学者ネル・ノディングズの、二つのケア

ここまでのトロントの整理とは別に、哲学者のネル・ノディングズも、ケアという営みを詳しく分析しています。ノディングズは、ケアを大きく「自然なケア」と「倫理的なケア」の二つに分けました。

自然なケア

自然なケアとは、私たちが意識するとしないとにかかわらず、「これは良いことだ」と感じられる、ごく当たり前の状態のことです。愛情や、自然な気持ちの動きから生まれるもので、頭で考えて義務としてやっているわけではありません。たとえば、夜中に泣いている赤ちゃんのもとに駆けつける母親は、何かのルールに従っているのではなく、ただ純粋に、子供のつらさを何とかしてあげたいという気持ちから動いています。ノディングズは、こうした自然なケアこそが、あらゆる倫理的なふるまいの源になると考えました。私たちが人との関係の中で本当に求めているのも、突き詰めればこの状態なのです。

倫理的なケア

とはいえ、いつも自然な愛情だけでケアができるわけではありません。相手のことがそこまで好きではなかったり、状況が難しすぎたりして、自然にはケアする気持ちが湧いてこないこともあります。そうしたときに呼び出されるのが、倫理的なケアです。

ここで支えになるのが、自分の中にある「こういう自分でありたい」という理想像です。これは、これまで自分が誰かにケアされてきた記憶や、自分が誰かをケアしてきた記憶から作られる、「自分が一番良い形でケアできているときの自分」のイメージのようなものです。自然には気持ちが動かない場面でも、人は「もし相手がこんなに難しい状況でなかったら、自分はどうふるまうだろうか」と自分に問いかけ、その理想像に基づいて、あえてケアを引き受けようとします。これが「引き受けなければ」という一歩踏み出す感覚です。

倫理的なケアの目的は、あくまで自然なケアを取り戻したり、保ったり、より豊かなものにしたりすることにあります。今この瞬間に愛情や自然な気持ちが湧いていなくても、関係そのものを途切れさせず、対話の窓口を開いたままにしておこうとする試みなのです。

向き合うケアと、気にかけるケア

ノディングズは、もう一つ別の軸でもケアを区別しています。目の前の相手と直接向き合う「向き合うケア」と、もっと距離のある相手を思いやる「気にかけるケア」です。

向き合うケアは、実際に顔を合わせて、相手の必要にその場で応えていく、直接的な関わりを指します。ノディングズの分析の中心にあるのは、こちらの意味でのケアです。一方、気にかけるケアは、たとえば遠い国で飢えに苦しんでいる子供たちのことを思う、というような、距離のある関心のことです。ノディングズは、時間にも空間にも限りがある以上、すべての人と直接向き合ってケアすることはできない、と考えます。けれど、この気にかけるケアがあることによって、私たちは正義という考え方の土台を持つことができ、いつか自分の前に現れた相手には向き合ってケアしよう、という心構えを保つことができるのです。

環境を守るのは、正義感から?それとも、ケアしたい気持ちから?

ここまで見てきた正義の倫理とケアの倫理という二つの軸は、環境との関わり方を考えるときにも、そのまま当てはめることができそうです。

たとえば、ゴミの分別や、資源の無駄遣いを控えることを考えてみます。一つの動機のかたちは、「限りある資源を、将来の世代や、他の生き物と公平に分かち合うべきだ」というものです。ここでは、まだ生まれていない世代や、声を持たない生き物にも、資源に対する取り分がある、という考え方が土台になっています。ルールや義務、権利といった言葉がしっくりくる動機のかたちで、これは正義の倫理に近い発想だと言えます。

もう一つの動機のかたちは、少し違います。長年使ってきた道具に愛着があって、壊れても直しながら使い続けたい。よく行く海や山の様子が気になって、そこに何かできることはないかと考えてしまう。こちらは、義務感からというより、特定の何か、あるいは誰かとの関係の中で、自然と湧いてくる気持ちに近いものです。目の前にある、大切にしたい相手(モノであれ、場所であれ、生き物であれ)に、応答したいという気持ちから行動が生まれる。これはケアの倫理に近い発想です。

どちらの動機が優れている、という話ではありません。むしろ、私たちの毎日の中には、この二つの動機が入り混じって存在しているように思います。義務感から始めた行動が、いつの間にか愛着に変わることもあれば、その逆もあります。大切なのは、自分が今どちらの動機で動いているのかに、少し自覚的になってみることかもしれません。

ケアの倫理が教えてくれる「新しい関係の結び方」とは

正義の倫理とケアの倫理、そのどちらか一方だけが正しいというわけではなさそうです。ルールや公平さが必要な場面もあれば、目の前の相手との関係が何より大事になる場面もあります。

ただ、ケアの倫理が教えてくれるのは、私たちがすでに、誰かに支えられ、誰かを支えながら生きているという、ごく当たり前の事実です。

この関係性を、少し意識的に、自分の生活の中に取り入れてみませんか。長く使ってきたものを手入れする。よく行く場所の様子に目を向ける。身近な誰かの必要に、少しだけ注意を向けてみる。

そうした小さな応答の積み重ねが、あなたにとってのケアの倫理の実践になるのかもしれません。


参考資料

  • キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』(1982年)
  • ヴァージニア・ヘルド『ケアの倫理:個人的、政治的、地球規模の視点から』(2006年)
  • ジョアン・トロント『道徳的境界:ケアの倫理のための政治的議論』(1993年)
  • ネル・ノディングズ『ケア:倫理と道徳教育への女性的なアプローチ』(1984年)
  • シモーヌ・ヴェイユ『シモーヌ・ヴェイユ・リーダー』(1977年)
Mariko
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小林真梨子|日本在住のエコライター。2018年よりサステナブルな暮らしを実践。パリ第四大学(ソルボンヌ)で分析・言語哲学の修士を取得。哲学的視点から、倫理的消費・エコライフスタイルをリサーチベースで発信する独立メディア「エコ哲学」を運営。