サステナブルパークとは?定義・世界の事例・公園の思想史をやさしく解説

「サステナブルパーク」と検索したとき、あなたが思い浮かべていたのは、どんな景色でしょうか。

子どもと出かけられる、環境にやさしいお出かけスポットかもしれません。都市計画や建築の仕事で事例を探していたのかもしれませんし、もっとシンプルに「これからの公園って、どうあるべきなんだろう」という素朴な疑問だったのかもしれません。

実はこの言葉、調べれば調べるほど輪郭がぼやけてきます。国連やIUCNのような国際機関の資料をあたっても、「サステナブルパークとはこれです」という単独の定義には、なかなか出会えないのです。

この記事では、その「定義のなさ」自体を出発点にしながら、公園という場所の役割がこの150年でどう変わってきたのかを、思想の歴史をたどりながら整理します。そのうえで、その思想を実際に形にしている海外の公園もいくつか紹介します。

「サステナブルパーク」に、共通の定義はあるのか

先に結論を言うと、少なくとも公式に一般化された単独の定義は見当たりません。

UN-Habitat、IUCN(国際自然保護連合)、C40 Cities、OECD。どの団体も都市の持続可能性や公共空間について膨大な資料を出していますが、「サステナブルパーク」という言葉だけを切り出して定義した文書は見つかりませんでした。公園はもっと大きな枠組み、たとえば「持続可能な都市」や「公共空間」、「生態系管理」といった概念の中の一部として語られています。

いくつか具体的に見てみましょう。

UN-Habitatは2015年のキャンペーン「Public Spaces for All」で、公共空間を「利益を目的とせず、誰もがアクセスでき、楽しめる場所」だと説明していて、公園もその一形態として扱われています。

IUCNは2023年にまとめた「Urban Nature Indexes」という枠組みの中で、消費のあり方、人間活動の圧力、生息地の状態、種の状態、自然が人にもたらす便益、ガバナンス応答という6つの軸から、都市の生態的なパフォーマンスを測ろうとしています。

C40 Citiesは2024年のデザインガイダンスで、在来種を使った植栽、雨水を自然に浄化するバイオスウェール、誰もが安全に使える設計を、緑豊かな公共空間の条件として挙げています。

OECDは2023年の報告書で、都市公園へのアクセスのしやすさを国ごとに比較し、緑地への到達性がどれだけ公平かという視点から、公園を持続可能な都市の指標のひとつとして扱っています。

こう並べてみると、「サステナブルパーク」という言葉がうっすらと形になってきます。生物多様性の保全、気候変動への適応力、人の心身の健康への寄与、誰もが公平にアクセスできること、そしてそれを支える長期的な管理体制。どうやらこのあたりが、共通する条件のようです。

つまり、「緑が多い場所」であることと「サステナブルパーク」であることは、イコールではありません。違いを分けるのは、その緑がどう管理され、誰にどう開かれ、どんな循環の仕組みを内側に持っているか。芝生の面積ではなく、そこで何が起きているかが問われているということです。

公園は、何のために作られたのか

定義をなぞるだけでは、この言葉の面白さの半分しか見えてきません。もう半分は、「公園」という発想そのものが、この150年でどれほど大きく意味を変えてきたか、という歴史の中にあります。

「都市の肺」だった時代

近代的な都市公園の原型は、19世紀の産業革命期に生まれました。急速な都市化で衛生環境が悪化し、労働者たちの心身がすり減っていくなか、公園は「都市の肺」と呼ばれるようになります。

その象徴が、近代造園学の父と呼ばれるフレデリック・ロー・オルムステッドが手がけた、ニューヨークのセントラルパークです。19世紀半ばに形づくられたこの公園を踏まえ、オルムステッドは1870年の論考『Public Parks and the Enlargement of Towns』で、公園を市民の健康と社会の安定を支える公衆衛生インフラとして論じました。

この時代の公園観を、環境倫理学は「人間中心主義」と呼びます。自然そのものに価値があるのではなく、人間に健康や癒やしという利益をもたらす手段として自然が捉えられていました。公園は、あくまで人間のための施設だったのです。

「土地倫理」という転換点

20世紀半ば、この人間中心の発想が根本から問い直されます。転換点になったのは、生態学者アルド・レオポルドが1949年に発表した『A Sand County Almanac』という本です。この中でレオポルドは、「土地倫理」という考え方を提唱しました。

人間を、土地という生命共同体を支配する側ではなく、その共同体を構成するただの一員として位置づけ直す。この視点の転換によって、動植物や土壌、水系にもそれ自体の価値を認める「生態系中心主義」という考え方が生まれました。

これを都市計画に応用したのが、イアン・マクハーグです。1969年の著書『デザイン・ウィズ・ネーチャー』で、マクハーグは自然を征服し改変する対象として扱う近代的な発想を批判し、地質や水文、植生、野生生物といった自然の特性を重ね合わせながら土地利用を考える手法を提示しました。公園は「人間がつくった緑の島」から、「地域の生態系ネットワークを支える拠点」へと、少しずつ再定義されていきます。

関連記事:アルド・レオポルドの土地倫理:自然との関係を再考する

「学びの場」への進化

1980年代以降、都市そのものを人工物と自然が相互作用するひとつの生態系として捉える見方が広がります。都市造園家アン・ウィストン・スパーンは1984年の著書『The Granite Garden』で、公園を大気循環や水循環、生物の移動経路をコントロールする都市の「生きた構造体」として描きました。これが今の「グリーンインフラ」や「生態系サービス」という考え方につながっています。

さらに、生物学者E.O.ウィルソンが唱えた「バイオフィリア仮説」を発展させ、ティモシー・ビートリーは2011年の著書『Biophilic Cities』で、都市空間と自然の関わり方を論じました。バイオフィリア仮説とは、自然を求める人間の本能的な傾向を指す考え方です。ビートリーが描く現代の公園は、市民が動植物を観察し、保全活動に関わり、雨水の循環を自分の目で確かめる「生きた学びの場」です。

こうたどってみると、「サステナブルパーク」が本当に言いたいことは、設備やお金の話だけではないとわかります。人間が自然を一方的に消費し、鑑賞する存在から、生態系という共同体の一員として自然と関わる存在へ。自分の立ち位置を見直す試みでもあるのです。

海外の公園に見る、循環の仕組み

思想を実際の設計に落とし込んでいる海外の公園を、3つだけ紹介します。

ビシャン・アンモキオ公園(シンガポール)は、かつてコンクリートで固められていた排水路を、蛇行する自然の川に戻した公園です。シンガポールの水道公社PUBが進める「ABC Waters programme」のもとで、植物や自然素材、土木技術を組み合わせた水辺環境がつくられ、増水時には柔軟に水を受け止められる設計になっています。この整備によってカワウソやトンボなど30種以上の生き物が戻ってきたと、PUBは2012年の事例報告で紹介しています。

エンハウエパーケン(Enghaveparken、コペンハーゲン)は、1920年代につくられた歴史ある公園を、近年多発する集中豪雨に対応できるよう改修した気候適応型公園です。周辺住宅の屋根から流れる雨水を地下の貯水槽や目に見える調整池に集め、乾いた時期にはその水を公園の灌漑や道路の清掃に活用する仕組みが組み込まれています。

ウェスターガス(Westergas、アムステルダム)は、19世紀のガス工場跡地を再生した文化公園です。かつて工場として使われていた土地の汚染に向き合いながら、敷地全体を緑地として再生させてきました。産業遺構の建物をあえて残しつつ、その間に緑を織り込んでいく設計は、公園を新しくつくるというより、その土地の記憶ごと引き継いでいくアプローチとも言えそうです。

3つの公園に共通しているのは、自然を守るための特別な区画をつくるのではなく、水や土という都市の基盤そのものに公園を組み込んでいるという点です。

「公園」ではない、もうひとつのサステナブルパーク

ここまで見てきたのは、人が歩き、憩う場所としての公園です。でも「サステナブルパーク」という言葉は、まったく別の文脈でも使われています。

日本には、脱炭素産業やリサイクル事業を集積させた「エコタウン」と呼ばれる産業拠点があります。北九州エコタウン(福岡県)は、家電や自動車、PETボトルなどの高度リサイクル工場が集まる国内最大規模の拠点で、近年は洋上風力発電や水素利用の実証にも取り組んでいます。川崎エコタウン(神奈川県)では、ある工場の廃棄物や副産物を別の工場の原料としてパイプラインで融通し合う、ゼロ・エミッション工業団地の仕組みが整備されています。

緑地としての公園とはまったく違う姿ですが、「サステナブル」という言葉がどれだけ広い範囲をカバーしているかが、ここからも伝わってきます。

さいごに

セントラルパークが「都市の肺」と呼ばれてから、150年以上が経ちました。その間に、公園という場所に私たちが求めるものは、静かに、でも確実に変わってきたようです。

癒やされる場所から、共に生きる場所へ。眺める対象から、関わる相手へ。

もしあなたが次に公園を訪れることがあれば、そこにある水はどこから来てどこへ流れていくのか、そこに立つ木は誰のために植えられたものなのか、少しだけ立ち止まって考えてみるのはどうでしょうか。

あなたにとっての「公園」は、何のためにありますか。

Mariko
Mariko

小林真梨子|日本在住のエコライター。2018年よりサステナブルな暮らしを実践。パリ第四大学(ソルボンヌ)で分析・言語哲学の修士を取得。哲学的視点から、倫理的消費・エコライフスタイルをリサーチベースで発信する独立メディア「エコ哲学」を運営。