森林浴とは?言葉の由来・科学的な効果・ なぜ今わざわざ森に行くのかを考える

「森林浴」という言葉、なんとなく使っています。でも、あらためて「どういう意味?」と聞かれると、少し詰まる。ハイキングとは違う。瞑想とも少し違う。でも何がどう違うのか、うまく言葉にできない。

「Shinrin-yoku」という日本語が、そのまま海外でも通じるようになっているのを知ったとき、不思議な気持ちになりました。訳されなかった言葉には、訳せなかった何かが入っているはずです。

この記事では、森林浴という言葉の成り立ちから、科学が確認していること、そして「なぜ今これが必要とされているのか」という問いまでを、一緒にたどっていきます。正解を押しつけるつもりはありません。読んだあとに、森との距離について少し違うかたちで考えるための素材になればと思っています。

「森林浴」という言葉の由来

「森林浴」という言葉が生まれたのは、1982年のことです。日本の林野庁が言い出しました。「海水浴」「日光浴」にならった言葉で、気軽に森に親しむための呼び名として広まっていきました。同じ年、長野県の赤沢自然休養林で最初の森林浴イベントが開かれています。

背景には、当時の政策的な変化がありました。高度経済成長期を経て林業が縮小していくなかで、森を木材以外の目的でどう活かすかという問いが出てきていました。人々の健康や休養に役立てる「多面的な公共の場」として、森を見直す視点が少しずつ生まれてきた時代です。

その後、2000年代に入ると林野庁や森林総合研究所による実証研究が進み、「森林セラピー」というしくみへと発展していきます。「森林浴」が「気軽に森に親しむ」という大きな考えかただとすれば、「森林セラピー」はその効果を科学的にたしかめ、認定された場所や専門のガイドを整備した、より体系だった取り組みです。つながっている部分はありますが、目的とやり方はだいぶ違います。

今日、「Shinrin-yoku」という言葉はWHOの関連文書にも出てきます。日本がストレスや不安をやわらげるためにこの実践を「グリーン・プリスクリプション(緑の処方箋)」として使ってきたと書かれており、欧米の医療やウェルビーイングの分野でも、補う手段のひとつとして参照されるようになっています。

からだに起きていること

「なんとなく気持ちいい」という感覚は、数字でとらえられるからだの変化として記録されています。主なものを3つ整理します。

フィトンチッドと免疫のつながり

樹木は自らを守るために、α-ピネンやリモネンといった揮発性の化学物質「フィトンチッド」を出しています。嗅覚はほかの感覚とは異なる神経のルートを持っていて、感情や記憶に関わる脳の部位と深くつながっています。この特性が、フィトンチッドを吸い込むことが免疫や自律神経に影響するルートのひとつと考えられています。李卿らの研究では、森林浴のあとに免疫細胞であるNK(ナチュラルキラー)細胞の活性や、がんに関連するたんぱく質の発現が増えたと報告されています。ただ、対象者数の少なさや再現性の課題も指摘されており、今後の研究が待たれる部分もあります。

自律神経のバランス

森の中では、からだをリラックスさせる副交感神経のはたらきが高まり、緊張をつかさどる交感神経が抑えられることが、いくつかの実験で確かめられています。林野庁の調査では、森と都市を歩いて比べたとき、特定の条件下で森のほうが副交感神経の活動が高かったという記録もあります。「なんとなく落ち着く」という感覚は、心拍変動(HRV)という客観的な指標からも裏づけられています。

ストレスホルモンの低下

血液や唾液の中のコルチゾール(ストレスホルモン)が、都市と比べて森の中で下がることも示されています。この傾向は2019年の系統的なレビューでも支持されており、一度きりの研究ではなく、積み重なったデータとして見ることができます。

「気分の問題じゃない」というのは、こういうことです。森の中で感じることは、からだのはっきりした変化として記録されています。

なぜ「わざわざ」行くようになったのか

ここで、少し立ち止まって考えたいことがあります。

人間にとって、森はもともと「いつもそこにある場所」でした。わざわざ意識して行くものでも、名前をつけるものでもなかった。それが今、「森林浴に行く」という行為になった。この変化そのものが、何かを語っているように思えます。

社会学者のゲオルク・ジンメルは1903年の論考の中で、都市が人の心に与える影響を分析しました。大都市には絶え間ない刺激があふれていて、そこで暮らす人は何ごとも感情ではなく計算で処理するようになると彼は言っています。刺激から自分を守るための反応ですが、同時に感覚をじわじわと鈍らせていく。

都市化は、大きく2つの「切れ目」をもたらしました。ひとつは空間の切れ目です。土や植物がコンクリートで覆われ、自然は「公園」という管理された場所の中にしか残らなくなりました。もうひとつは時間の切れ目です。からだは太陽や季節のリズムではなく、時計と締め切りのリズムで動くよう求められるようになりました。

さらに2010年代以降、スマートフォンとSNSがこの切れ目をからだの内側から深めていきます。

環境心理学者のレイチェル&スティーブン・キャプランが提唱した「注意回復理論(ART)」によれば、人の注意には2種類あります。意識的に何かに向ける「指向性注意」と、おもしろいものに自然と引きつけられる「不随意注意」です。スマートフォンの画面は前者をひたすら使い続けます。通知、スクロール、タスクの切り替え——これらはぜんぶ、頭が意識的に処理しなければならないものです。

ところが、木漏れ日の揺らぎや葉のこすれる音は違います。努力しなくても五感を引きつける。この「やわらかな魅力」の中で、指向性注意は休みに入り、疲れがすこしずつ戻ってきます。

デジタル環境にはもうひとつの問題があります。画面への集中は、視覚だけを使いすぎながら、においや触れる感覚や音を遮断していく。ジャーナリストのリチャード・ルーブが名付けた「自然欠乏障害(Nature Deficit Disorder)」は、正式な医学的診断名ではありませんが、自然と接する機会が減ることで起きる心身の不調を説明するための考えかたとして、環境心理学や公衆衛生の分野で広く参照されてきました。

「森林浴に意識的に行く」という行為が必要になった背景には、社会のかたちの変化があります。

「Shinrin-yoku」が世界で受け入れられている理由

欧米で「Shinrin-yoku」という日本語がそのまま通じるのは、訳せなかった何かがそこに含まれているからかもしれません。

日本語で「自然」は、かつて「じねん」と読まれました。「自ずから然る」——人の意図を超えて、それ自体で生まれ消えを繰り返す動きのことです。人はその外に立つ観察者ではなく、その流れの中にいる一部として捉えられていました。

これは、近代の西洋が育ててきた自然観とはだいぶ違います。デカルト以降の西洋近代は、心(人間)と物質(自然)を切り離し、人が自然を外から管理する考えかたを築いてきました。「知は力なり」というフランシス・ベーコンの言葉が象徴するように、自然は解き明かされ、使われるべき対象でした。

欧米のウェルビーイングに関心のある人たちがShinrin-yokoに惹かれる背景には、この考えかたが行き詰まってきた感覚があるように思えます。ハイキングやランニングなど、従来の自然の楽しみかたは「頂上を目指す」「距離を稼ぐ」という目標ありきの構造を持ちがちです。それ自体は悪いことではないのですが、気づかないうちに「自然を攻略する」という近代的なパターンを繰り返しているかもしれない。

森林浴が求めるのは、そうじゃありません。何かを成し遂げなくていい。ただそこにいること(Being)。それが、「何かを達成すること(Doing)」に慣れてきた人には、かえって難しくて、でも新鮮に感じられるのではないでしょうか。

ノルウェーの哲学者アルネ・ネスは、すべての生き物に固有の価値を認め、自分の範囲を生態系全体へと広げる「生態学的自己」という考えを提唱しました。「森の呼吸と自分の呼吸がひとつになる」という感覚は、この問いと遠くない場所にあります。

五感を開くということ

目は、対象を「遠くから、安全に、外側から」とらえられる感覚です。だからこそ、自然を外から眺めるという近代的な姿勢と相性がいい。

でも、においと触れる感覚は少し違います。

フィトンチッドは吸い込まれ、血流に乗り、からだの中ではたらきます。森の成分が自分の体内に入り込む。これは「外の世界を観察する」ことではなく、「外の世界と混ざり合う」ことです。においは、言葉で考えるより先に、からだが反応する。

触れる感覚も同じです。アスファルトは足の裏に単調な刺激しか与えません。でも木の根や泥、でこぼこした地面を歩くとき、からだは重心と位置を絶えず調整しながら、地面の不規則さをそのまま受け止めていきます。また、土の中にいる無害な細菌(Mycobacterium vaccae)に触れることが、脳内のセロトニン(いわゆる幸福物質)の分泌を促す可能性があるという研究知見もあります。ただし、これは現時点では動物実験を中心とした段階で、人での確証はまだ十分ではありません。

もうひとつ、「1/fゆらぎ」の話があります。木漏れ日の揺らぎや川のせせらぎには、規則性と不規則性が混ざり合った「1/fゆらぎ」と呼ばれる物理的な特性があります。人のからだや脳の波もこれに近い構造を持っているとされており、自然のゆらぎが心地よく感じられる理由のひとつではないかと研究者たちは見ています。ただ、「脳波が同調する」「前頭葉が鎮静する」といった細かいメカニズムは、まだ仮説の段階です。確かめられていることと、そうでないことの間には、今も大きな余白があります。

からだと外の世界の境目が、森の中ではすこし曖昧になる。そんな感覚があるとしたら、それは気のせいではないかもしれません。

おわりに

「森林浴が健康にいい」というのは、たぶん正しい。でも、研究が示しているのはそれ以上のことでもあるように感じます。

からだの免疫はフィトンチッドに反応し、注意は自然のやわらかな刺激の中で回復し、からだ全体が森という場所とのやりとりの中で動いている。これはつまり、人が自然とつながっていることが、ふつうに機能するための前提なのかもしれない、ということです。

「わざわざ森林浴に行く」という現代の行為は、健康法の話である以前に、社会がどんな方向に進んできたかを静かに問いかけています。都市化、デジタル化、そして「何かを成し遂げること」への絶え間ない要求。それをひとまず置いて、ただ森の中に立つことを「メソッド」として名前をつけなきゃいけなくなった時代を、私たちは今生きています。

答えはどこにもないし、毎週末を森で過ごす必要もありません。ただ、少し違う角度から森との距離を考えられるようになっていたら、この記事はその役割を果たせたことになります。

あなたが最後に、何も達成しようとせずに森の中に立ったのは、いつだったでしょうか。


参照資料

Mariko
Mariko

小林真梨子|日本在住のエコライター。2018年よりサステナブルな暮らしを実践。パリ第四大学(ソルボンヌ)で分析・言語哲学の修士を取得。哲学的視点から、倫理的消費・エコライフスタイルをリサーチベースで発信する独立メディア「エコ哲学」を運営。