春になると、新しい部屋で新生活を始める人が増えます。
進学、就職、転職、あるいは誰かとの別れ。
理由はそれぞれでも、引っ越しには独特の高揚感と、それと同じくらいの不安が混ざっています。やりたいことは山ほどあるのに、時間もお金も足りない。こだわりたい気持ちはあっても、「とりあえず」で決めるしかない場面が続く。
そんな経験、ある人も多いのではないでしょうか。
わたし自身も、そのひとりでした。
フランスから帰国して、実家にしばらく居候していたころ、そろそろ一人暮らしをしなければと思い始めました。アパートを探し、ちょうど家賃が高騰する前だったこともあり、条件のいい物件が見つかりました。
でも、初期費用はやはり大きかった。
本当は、こだわりたかったのです。環境への影響を考えて作られた素材のもの、長く使えるデザインのもの。でも現実的に難しく、結局オンラインショップや大型家具店で、値段の安いものをひととおり揃えました。
そのとき、心のどこかで思いました。「サステナブルな選択は、余裕ができてからでいい」と。
この感覚には、たいてい静かな罪悪感がついてきます。本当はわかっているのに、できない」という、うまく言葉にできない諦め。
でも、そこで少し立ち止まってみたいのです。
その罪悪感は、何に向けられているのでしょうか。
「余裕がない自分」に対してなのか。
それとも、「サステナブルに関心がない自分」に対してなのか。
この二つは、本当に同じことなのでしょうか。
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「サステナブルな選択」は、誰のことを想定して作られた言葉なのか
まず、「サステナブルな選択」という言葉そのものを、少し疑ってみたいと思います。
フェアトレードの製品が高いのは、作り手に適正な賃金を払い、環境への負荷も価格に含めているからだ、という説明があります。これは正しい。でも、イギリスの経済学者ケイト・ラワースはこう問います。そもそも、その「正しい価格」を払えない人たちは、最初から想定されていなかったのではないか、と。
ラワースは著書『ドーナツ経済学』の中で、従来の経済学が抱える根本的な盲点を指摘しました。市場で価格を支払える人の満足度だけを計算に入れ、お金を持たない何十億もの人々の切実なニーズを無視してきた、と。
さらに彼女は、経済を図に描くとき、そこに「社会」も「地球」も登場しないことを問題にします。経済は、社会の中に埋め込まれ、地球の限界の中で動いているはずなのに、まるで孤立した貨幣の循環のように描かれてきた。
「誰のための、何のための経済か」という問いを、ラワースは経済学の核心に投げ返しました。
同じ問いを、サステナビリティの話に持ち込むと、少し景色が変わります。「サステナブルな選択をしよう」という言葉は、暗黙のうちに「ある程度の経済的な余裕がある人」を前提にしていることが多い。初期費用を気にしながら部屋を揃えている人は、その前提の外にいます。
「余裕がないからサステナブルにできない」と感じるとき、その苦さの一部は、意志が弱いからではなく、そもそも自分に向けて作られていない言葉を、自分に当てはめようとしていることから来ているのかもしれません。
「できていない」のではなく、「問いの立て方」がずれているのかもしれない
では、「余裕がないとサステナブルにできない」という悩みをどう問い直せばいいのでしょうか。
アメリカのジャーナリスト、エリザベス・コルバートは著書『6度目の大絶滅』の中で、こんな指摘をしています。現在の絶滅危機において重要なのは、人々がどれほど犠牲を払い、どれほど「気にかけているか」ではない。本質的な問題は、人間という種が、他の生き物が適応できるスピードをはるかに超えて世界を変えてしまっているという、「変化の速さ」そのものにある、と。
この言葉を借りれば、「サステナブルにできない」という悩みを「意志の問題」として自分に向けること自体、問いの方向がずれているのかもしれません。
関心が足りない、努力が足りない、優先順位が間違っている。
そういう自己批判は、問いを個人の内側に閉じ込めてしまいます。でも本当に問うべきは、「何をサステナブルと呼ぶのか」ではないでしょうか。
新しい部屋に引っ越したとき、何もない状態から始まります。
安いものを買う。必要最低限のものしか置かない。壊れたら修理しながら使う。できるだけ増やさない。
これらには、エシカルブランドのタグはついていません。でも、消費のスピードという観点から見れば、「サステナブルな実践」に近いとも言えます。
ラベルのない選択が、なぜサステナブルとみなされにくいのか。この問いを持ち続けることは、悩みをなくすのではなく、悩む場所を少しだけ動かしてくれます。
「買えない」ことと、「サステナブルでない」ことは、同じではない
もう一歩進んで考えてみましょう。
「余裕ができてからサステナブルに」という言葉の奥には、ある思い込みが潜んでいます。それは、「サステナブルであること=環境に配慮した高い商品を買うこと」という認識です。
でも、本当にそうでしょうか。
イギリスの経済学者ティム・ジャクソンは、著書『成長なき繁栄』の中で「質素(英語でFrugality)」を、最も美しく、喜びに満ちた言葉のひとつとして再定義しています。もとはラテン語で「果実」を意味するこの言葉には、節約という後ろ向きな含意はなかった。それは「長期的な豊かさのために、誠実に、節度ある生き方をすること」を意味していたのだ、と。
一方で、現代の経済システムにおける「節約(英語でThrift)」には、ある皮肉な問題があるとジャクソンは指摘します。将来への不安から人々が節約に走ると、消費が落ち込み、景気がさらに悪化するという矛盾が生まれる。これは「節約のパラドックス」と呼ばれる現象です。つまり「質素に生きる」ことと「節約を強いられる」ことは、言葉の響きは似ていても、社会的な意味がまったく違う。前者は自分の軸から選ぶことであり、後者はシステムに追い立てられることです。
ジャクソンはまた、「消費を減らしたところに別の豊かさがある」という考え方を紹介しています。ガーデニング、散歩、読書、誰かのケア。お金をあまり使わず、それでいて満足感の高い活動は、消費の「失敗」ではなく、別の豊かさへの参加として捉えられる、と。
改めて問いたいのです。サステナブルな行動とは、エシカルな商品を買うことだけを指すのでしょうか。必要ではないものを買わない、という選択は、サステナブルではないのでしょうか。むしろ消費そのものを減らすことは、環境への負荷という点では、もっとも直接的な実践かもしれません。
「余裕ができてからサステナブルに」という言葉の根っこにある問題は、もしかしたら「余裕がない」ことではなく、「高い商品を買うことだけがサステナブルだ」という思い込みにあるのかもしれません。その思い込みを少し手放してみると、今この状態が、すでに問いの出発点になっていることに気づきます。
この問いをもっと深めたい人へ
ジャクソンは、本当の繁栄とは所得や所有物の多さではなく、「地球の限界の中で、人間として花開くように生きる能力(flourishing)」のことだと定義しています。それは、誰かを愛し愛されること、社会に有意義に参加すること、そして将来への希望を持つこと。どれだけ持っているかではなく、どう生きているかの問いです。
もしそれが豊かさの定義だとしたら、「余裕ができてからサステナブルに」という問いの立て方は、どう変わって見えるでしょうか。
あなたはどう思いますか。
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