私たちは皆、ゴミ屋敷のような地球に住んでいる

ゴミ屋敷のビデオをYouTubeでおすすめされると、なぜかクリックしてしまう。プロの掃除業者が散らかった家を片付ける内容のビデオだが、ゴミや物に溢れている部屋が映し出される。どうやってこんな散らかった状態で生活できるのか不思議に思うけど、汚い部屋が綺麗になっていく掃除のプロセスを見るとスッキリした気分になる。

日本では、ゴミ収集のスケジュールが厳しいため、ゴミ屋敷になる場合がある。忙しくて、ゴミを指定日に出せないと、ゴミがどんどん家に溜まっていってしまう。数週間、数ヶ月ゴミを出せない状態が続くと、誰でもゴミ屋敷になる可能性がある。

人はどうしたらこんな状態で生活できるようになるのか不思議に思う。動画に出てくるゴミ屋敷に住んでいる人も、自分の家の状態が普通じゃないことは分かっている。だから人を家に呼ばなくなり、家族や友人からゴミ屋敷に住んでいることを隠している。周りの人から助けを求められないから、どんどん深刻になっていく。

どうして人は家をきれいに保てなくなるんだろう?過去のトラウマや過労による精神疾患が原因で片付けるのが難しくなると説明されている。それは正しいかもしれないが、本当の原因は私たちとゴミとの関係にあると思う。

ゴミとは、一体何だろうか

 家をきれいに保つことができる私たちにとっても、ゴミは日常生活の一部だ。現代社会では、ゴミを出さないで生活することはできない。ゼロウェイスト生活を試してみて、ゴミを出さない生活の限界に気づいた。スーパーで買う食品は、プラスチック包装にしっかり覆われている。飲み物はペットボトルや紙コップに入って提供される。料理するのが面倒でテイクアウトを頼めば、容器と使い捨ての箸やフォークが付いてくる。気をつけないと、私たちの家もゴミ屋敷になりかねない。

ゴミとは何だろうか。私たちはどうやってゴミとゴミではない物を分類しているのだろう?ゴミとは、私たちの生活空間に属さないものと定義されている。英語では、「waste」「trash」「garbage」は「人間や動物の居住地からの廃棄物」を意味する(メリアム・ウェブスター辞書、Waste)。フランス語の「déchet」は、社会的世界から除外され、社会から落ちた物と表現されている(ARTE、Les idées larges、2023)。

日本語の「ゴミ」という言葉は、もともと「泥水と混ざった泥、または川や海の底にある泥」を意味していた(コトバンク、ゴミ)。しかし、江戸時代の1655年、ゴミ政策により川にゴミを捨てることが禁止された。ゴミは、当時の東京の江東区(かつては永代島と呼ばれていた)に収集され、運び出された。ゴミは人々の生活空間から排除されていた。

ゴミは生活空間に属さないものっていうことは分かるが、どうしてゴミ屋敷に住む人は分別ができないのだろうか?実際、「汚い」の感じ方は一人ひとり違う。すべてのものを指定された場所に置かないと気が済まないと感じる人もいれば、テーブルや床に物が散らかっていても気にならない人もいる。人類学者のメアリー・ダグラスは、清潔さの概念の相対性を説明している。

「汚れがあるところには、システムがある。汚れは、秩序づけが不適切な要素を排除することを意味する限り、秩序立てられた分類の副産物である」(ダグラス [1966] 1984:36)

私たちは住んでいる環境を整理し、何がどこに属するかを決めている。ダグラスが「靴それ自体は汚くないが、ダイニングテーブルの上に置くと汚い」と言うように、私たちは特定の場所に特定の物を置くことを学ぶ(ダグラス [1966] 1984:37)。ゴミ屋敷に住む人にとって、生活空間にゴミを置くことは汚いとは感じない。一方、一般的にはゴミが生活空間に溢れているのは、ダイニングテーブルに靴を置くことと同じように汚いと感じる。

私たちの社会ではゴミは生活空間に属さない。それでは、一体どこに属するのだろうか。

自然界に溢れるゴミ 

私たちは、ゴミを生活空間から排除しながら、家や都市を整備している。収集された後、ゴミは一体どうなるのだろうか。その後のプロセスは私たちの目に見えないところで行われているので、ゴミの行方を想像することは難しい。ゴミは通常、埋立地に投棄されるか、廃棄物発電施設で燃やされるらしい。言い換えれば、ゴミは土壌や空気となって自然の一部となる。

一方で、私たちは自然の中にゴミが存在することを好まない。ビーチ、山、野原はゴミのない場所であるべきだ感じる。自然界の空気は新鮮で、人間の活動によって汚染されるべきではない。人工的なものすべてを自然から取り除く必要があると感じるのは、私たちの自然に対して浪漫を感じているからだろう。ゴミを自然に捨てることは、汚く、間違っているように感じる。興味深いことに、自然環境に住む狩猟採集民は、自然に散らばるゴミを全く気にしていないらしい(スズマン、ジェームズ、2017: doi: 408-412/1082)。私たちとは異なり、彼らはゴミを汚染とは見なしていない。

それでも美しい自然環境にゴミが場所を占めていることに不快感を覚える。科学的知識により、プラスチックのような物質は何百年も完全に分解されないことも分かっている。私たちのゴミの一部には、鉛、水銀、カドミウムのような危険な物質が含まれており、人間や動物に潜在的な危険をもたらす。

地球上で、私たちのゴミが属する他の場所があるだろうか。

私たちのゴミは、捨てた後に魔法のように消えるわけではない 

きれいに整理された家や都市からゴミを捨てた後、私たちは地球からゴミが魔法のように消えてなくなることを願っている。私たちはゴミを目に見えない場所に置くことができる。埋立地がいっぱいになれば、遠くの国に運ぶこともできる。しかし、ゴミは消えることはない。

クローゼットや物置きに要らない物をしまっておくように、ゴミを目に見えないところに隠している。物が溜まっていることは知っているけど、その存在を忘れながら生活することができる。しかし、現代の消費スピードでは、クローゼットや物置きはすぐにいっぱいになり、物を置く他の場所を見つけなければならない。私たちが生活する中で出るすべてのゴミを置くスペースは、この地球上にはない。

ゴミ屋敷は異常だと感じるけど、同時に現代の消費主義社会の異常さを正確に表している。衛生的ではなく、とてもじゃないけど住むことができない場所。地球からゴミを掃除してくれる特別なプロの清掃業者がいればいいのにと願うが、地球からゴミを消し去る魔法のような解決策はない。

このゴミ屋敷のような地球に住み続けたいと思いますか?

参考文献

Merriam-Webster, Waste, https://www.merriam-webster.com/dictionary/waste

Pourquoi a-t-on besoin de jeter ? | Les idées larges | ARTE, 2023, https://www.youtube.com/watch?v=QbI_TpP_xn4

Kotobank, Gomi, https://kotobank.jp/word/%E3%81%94%E3%81%BF-168353

Douglas, Mary. 1966 (1984). Purity and Danger: An Analysis of Concepts of Pollution and Taboo. Reprint.
Suzman, James. 2017. Affluence Without Abundance: The Disappearing World of the Bushmen. Bloomsbury USA.