毎年、新年の抱負を立てるのに悩む。世界を人々にとってより良い持続可能な場所にすることや、仕事や個人の自由を増やすことなどを目標にしたいことはたくさんある。過去には「穏やか楽しい1年を過ごす」といった控えめな目標を立てたこともあるが、それすら1年で達成できたかどうかは定かではない。
持続可能な目標を掲げることは大切だと思うが、どんな目標を選ぶべきか毎年悩む。よく実現できる分かりやすい目標を立てることが、成功に近づくと言われている。月に2冊の本を読むとか、毎日10分以上文章を書くといった目標なら簡単に達成できて、達成感も得られる。でも、そんな目標を達成することにどれほどの意味があるのだろうか。私たちが毎年新年の抱負を立てるのは、自分自身や時間の使い方を変えたいという思いがあるから。
しかし、SDGsやサステナビリティに関する目標のほとんどは、個人レベルでは実現が難しく、達成は不可能に近い。それなら、肉を減らすことや、ファストファッションの代わりに古着を買うといった、手の届く目標に絞るべきなのだろう。確かにちょっと努力をすれば、これらの目標は達成できる。でも、それで満足していいのだろうか?そして、そういった目標は現在の環境問題や社会問題の解決に本当に役立つのだろうか?
持続可能な目標の選び方
新年の抱負は個人的なものであり、人によって異なるため、正解というものはない。私たちが毎年目標を立てるのは、自分の人生に満足できていない部分があるからだ。それは、もっと収入を増やしたいとか、仕事を変えたいといった個人的な目標かもしれないし、より良い社会を作りたいとか、気候変動に立ち向かいたいといった社会的な目標かもしれない。
変化を望む一方で、多くの目標は自分の力だけではどうにもならない。例えば、収入を増やしたいと思っても、それは自分の能力だけで決まるものではない。経済状況や雇用機会に左右されることも多く、運が大きく影響することもある。
今年の目標は何にしようかと持続可能な目標をリサーチしてみたが、ほとんどの目標が自分の手の届かないところにあることに気づく。世界平和の実現や貧困の解消など、どうすれば実現できるのか見当もつかない。ウクライナやガザでの戦争を終わらせることも、極度の貧困に苦しむ世界中の人々を救うことも私一人で何とかなることではない。こんな大きな目標を立てても、私にはいつかそれらが実現することを願うことしかできない。
男女平等やサステナブルではない消費といった、自分なりに取り組める目標もある。例えば、男女平等を進めるために女性候補者に投票したり、女性が経営する企業を応援したりできる。また、何も考えないで買い物したり、物を簡単に捨てることをやめることでサステナブルではに消費を減らすこともできる。しかし、そういった個人の行動で現状を根本的に変えられるかはわからない。実質的な変化を生み出すには、個人でできることには限界があるのだ。
私たちの力ではどうにもならないからと、すべてを諦めるべきなのだろうか?それとも、できることをやり遂げて満足すべきなのだろうか?
私たちはどこまで責任を持つべきなのか?
自分自身や社会を変えたいと考えるとき、「私たちはどこまで責任を負うべきなのか」という問いと向き合う必要がある。確かに、今の状況に満足できていない。でも、生まれ育った環境や住んでいる場所など、自分ではどうしようもないこともある。例えば、公共交通機関がない地域に住んでいれば、毎日の通勤に車を使わざるを得ない。そんな状況に対して責任を感じる必要はない。
社会からのプレッシャーも無視できない。最新の商品を持っていることが重視されるグループに属していれば、たとえ本当に必要でなくても、それに従わないのは難しい。社会の一員でいたいという気持ちと、過剰な消費を控えたいという思いの間で葛藤することになる。どちらを選んでも、何らかの犠牲は避けられない。
では、私たちには自由な選択肢がないのだろうか?幸運にも仕事を変えられたり、別の社会集団に所属できたりする人なら、自分の価値観や信念に反する行動を改めることができる。しかし、誰もがそんな幸運に恵まれているわけではない。車の使用を続けざるを得なかったり、新しい携帯電話を買い続けなければならなかったりすることもある。
変えられないものを目指すのは賢明ではないが、かといって簡単に諦めてしまっていいのだろうか。
様々な欲望の間で揺れる心
どんなに頑張っても変えられないことがある一方で、努力次第で変えられる可能性もある。例えば、安価なファストファッションを買うのを控えることはできるかもしれないが、同時に服にかける出費を減らしたいという願望にも直面する。理論的には可能でも、現実には行動に移せないというジレンマがそこにある。
私たちは日々、いろいろな欲望の狭間で揺れ動いている。目先の欲望が、「より良い人間になりたい」という本質的な願いの実現を妨げている。
新年の抱負を決めるとき、自分の信念に忠実に生きることがいかに難しいかを教えてくれる。たとえ達成可能な目標を立てたとしても、長年の習慣を変え、目先の欲求に打ち勝つのは容易なことではない。
責任の一部を担いたい
多くのことは自分の力ではどうにもならない。正しいことをしたいと思っても、いつも思い通りにはいかない。ガレン・ストローソンが述べるように、「私たちは自分の行動に対して、真の意味で、あるいは究極的な道徳的責任を負うことはできない」のだ。消費主義的で不公平な世界で育った私たちには、生き方や価値観を簡単に変えることはできない。ただ生きていくことで精一杯の人々を責めることはできない。
しかし、だからといって全員が諦めて、責任から逃げるオプションもない。気候変動は深刻化し、地球は人が住めない場所になりつつある。貧富の格差は広がり、政治的・社会的な不安定さを生んでいる。
自分たちの行動不足を責めることと、すべては手に負えないからと責任を完全に放棄することの間に、どんな選択肢があるのだろうか?私は、自分たちをそう行動させる心理的な仕組みに責任を持つという考え方がいいと思う。
なぜなら、現状は完全に私たちの責任というわけではないからだ。罪悪感は強力な動機付けにはなるが、否定につながることもある。罪悪感は「自分は何も悪いことをしていない」という否定的な態度を生むこともあり、それは建設的ではない。
その代わりに、生い立ちや現在の環境によってどうしようもないことがあると認め、そういった部分については自分を責めないでいい。その機会を使って、どうしてそのような行動を取るのか考えることができる。自分の心理的な仕組みを理解して、現状を変えようとする努力はできる。
自己破壊的な行動に対してセラピーを受けるようなものだ。行動を変えるには、より深いところから取り組む必要がある。どうして新しい物を買いたくなっちゃうんだろう。どうして安い物を買ってしまうんだろう。どうして女性やマイノリティーに対する差別をする行動をしてしまうんだろう。これらの行動をしないことが理想だけど、いつもできるとは限らない。罪悪感を感じて動けなくなるより、これらの行動を生み出す根本的な理由を探す責任を持ったほうがいい。
達成可能な目標を選んでも、表面的な対処だけで終わってしまい、より深い問題に気づくことができない。持続可能な変化を生むには、たとえ失敗が分かっていても、高い目標を目指す方がいい。成功できなかったことを悔やむのではなく、一人の人間として学び、成長したいと思う。
参考資料
SDG’s report 2024, https://unstats.un.org/sdgs/files/report/2024/SG-SDG-Progress-Report-2024-advanced-unedited-version.pdf
Talbert. Matthew (2024), Moral Responsibility, https://plato.stanford.edu/entries/moral-responsibility/